退職にあたって想うこと

私が旧合成化学科に入学したのは、1958年の4月である。入学の後1年半は六本松の教養部で過ごしたが、それ以降はずっとこの旧合成化学科の建物に籍を置いた。43年と半年の間である。文字どおり人生のほとんどといってよい。しかし、これを終えようとするいま、不思議に、格別な感慨はない。大きな過ちもなく、務めを果たせそうだという安堵感もまだない。あと2ヶ月余が残っているせいかもしれない。

しかし、人のことはよく分からないが、私は過去を振り返ることが少ないように思う。実は、振り返るだけの能力が私にはなかった、という方が正しい。目前のことに対処するだけで精一杯のまま、過ごしてきたからである。それだけに、振り返って想うことといえば、研究室の皆さんに本当にお世話になったということである。感謝の気持ちと、自分が至らなかったというお詫びの気持ちだけである。

自分の生き方や考え方が、いつから、どのようにして植え付けられ育ったのか分からない。社会不安が進んだ戦時と敗戦が、幼時体験として根付いたのかもしれない。とにかく、自分に大した能力はないことを常に思い知らされながら、それにも関わらず、自分は背伸びに背伸びを重ねて生きてきたように思う。話を飛躍させれば、アメリカに追いつき追い越さねばならない、という気持ちがあった。これが私を自然科学、工学の道に歩ませた。私は筑紫郡春日村(今の春日市)に育った。敗戦後、ここに広大な米軍基地が設けられたのである。跡地の一部が九大の筑紫キャンパスとして用いられていることは知られているとおりである。

自分の力が及ばないことも顧みず、私は研究課題をかなり頻繁に変えた。私の気ままに付き合わされた教員・学生の皆さんにはたいへん迷惑をかけた。特に、課題が変わる時期に当たった方々がそうである。少し手を加えると論文に仕上がるはずの研究も、しばしば中断した。申し訳ない気持ちでいっぱいである。いま個々を思い出し、お詫びを申し上げたいが名前をあげるときりがなくなる。一方、新しい研究テーマを持ち出すに当たっては、教員・学生の皆さんに事実上「丸投げ」した。それにも関わらず、研究室として世界レベルで恥ずかしくない成果を挙げてきた。全て、担当された皆さんの努力によるものである。

私の退職をおりに、研究室として記念文集でもという話題が卒業生の皆さんの間で出た。本当に有り難いことであった。いろいろな構想があったように聞くが、取りまとめにあたった竹中助教授と野島助手には、無理を言って私の最後のわがままを聞き届けていただいた。改めて感謝を申し上げる。私の筆の遅さは、皆さんが先刻ご承知のことである。これについてはまた、編集に当たられた両氏に、最後の最後までご迷惑をかけた。推敲を重ねて筆が遅かったわけではない。単に書こうとして書き尽くせぬことが多く、取りとめがなかった。また時期を見て、皆様に改めて感謝のご挨拶を申し上げたいと考えている。

2003年1月16日

高木 誠


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